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宮田祇園祭研究(1)津島神社を知る

  • 執筆者の写真: 天野 早人
    天野 早人
  • 7月19日
  • 読了時間: 4分

更新日:11月3日

伊那街道(三州街道)宮田宿は、1593年(文禄2年)頃に萌芽し、1649年(慶安2年)頃に本格化したものと推測されている(*注1)。宿場町は、人・馬・物・情報・文化が行き交う玄関口であり、たびたび疫病が伝播することにもなった。また、間口が狭い家屋が密集する宿場町は火災に弱く、1662年(寛文2年)、1768年(明和5年)、1890年(明治23年)に大火の記録がある(*注2)。津島神社の前身である「天王社」は、宿場町の形成時または形成後に、除疫・防疫と火伏のため、宿場町(町割)の人々によって勧請されたと考えるのが自然であろう。


「天王社」は1776年(安永5年)以前に存在しており、おおよそ250年が経過しているのは間違いないが(❶参照)、勧請された時期の特定には至っていない。当初は、現在の「村人テラス」のあたりに建立されたが(❷参照)、1898年(明治29年)に「宮田学校」の跡地である現在地へ移転し(❸❹参照)、1930年(昭和5年)には隣接地を買収して境内が拡張された。その後、西向きの本殿は歓迎されないとのことで、民地の寄進を受け、1934年(昭和9年)に南向きに建て替えて現在に至る(❺参照)。


1879年(明治12年)と1882年(明治15年)の神社明細帳には、1519年(永正16年)6月に勧請された等の言い伝えが記載されているが(❻参照)、1690年(元禄3年)の御検地水帳に「天王社」が記載されていないことや(❼参照)、計画的に整備された宿場町(町割)を中心に発展した町区が氏子区域となっていることから、宿場町の形成前に「天王社」が存在していたとは考えにくく、整合性に疑問が残ると言わざるをえない。先行研究においては、次のとおり、宿場町との関係性が指摘されている。


街道の西側の「天王」は、その名のとおり牛頭天王を祀った社で、徐疫の神というその性格から、宿場町ができた後、ありがちな疫病の流行を受けて勧請されたものであろう(*注3)。​​


宮田の町へ津島神社を祀ったのはいつの頃であろうか。それは、おそらく江戸時代にここを通じる伊那往還(三州街道)が開け、宮田の宿場(しゅくば)が定まって間もなくであろう。(略)その宿場―宮田町を護り、商売繁昌の神として津島神社を迎え、町の南はづれの丘の上に祀ったのはまことに自然であった(*注4)。(原文ママ)


当初祀られたのは、除疫・防疫のために行疫神たる「牛頭天王」と、火伏のための「秋葉大権現」である。1868年(明治元年)の「神仏判然令」により、神仏習合の象徴であった「牛頭天王」は「素戔嗚尊(建速須佐之男命)」へ(❽参照)、「秋葉大権現」は「軻遇突智命(火之迦具土神)」へと読み替えられ、あわせて「天王社」から「津島神社(津島社)」に改称された。今日でも、親しみを込めて「お天王さま」と呼ばれるのは、こうした歴史の名残である。


(*注1)宮田村誌編纂委員会(編)、1982年(昭和57年)『宮田村誌』上巻、宮田村誌刊行会、p.735、740

(*注2)宮田村誌編纂委員会(編)、1983年(昭和58年)『宮田村誌』下巻、宮田村誌刊行会『宮田村誌』下巻p.838、宮田村誌編纂委員会(編)、1982年(昭和57年)『宮田村誌』上巻、宮田村誌刊行会、p.741、833、840、873、875

(*注3)小池孝(著)、2018年(平成30年)「伊那街道宮田宿」上伊那郷土研究会(編)『伊那路』(宮田宿特集)第62巻第10号通巻741号、p.1~10

(*注4)向山雅重(著)、1990年(平成2年)「狂気の神輿に警鐘鳴らす 向山雅重『祇園祭の記』江戸時代に始まった津島様の祭」宮田新聞社(発)『みやだ漫筆』、p164~156


文責:天野早人(2025年7月19日)

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❶津島神社の前身は「天王社」で、1776年(安永5年)以前に存在していたことは明らかである。現時点で確認されている最古の文書である*。


*1776年(安永5年)、喜多屋文書『秋葉津嶋両社入用帳』

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❷1839年頃(天保10年頃)の製作と推測される絵図には、「天王」として描かれている。現時点で確認されている最古の絵図である*。当時は伊那街道(三州街道)の西側にあったことがわかる。


*竹屋文書『宮田村部分古絵図1』

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❸1913年(大正2年)1月の絵葉書(年賀状)に、「宮田津島神社」の写真が使われている*。現時点で確認されている最古の写真である。本殿が西を向いていることがわかる。


*1913年(大正2年)1月、銭屋絵葉書『宮田津島神社』(同構図の喜多屋絵葉書もある)

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❹今の津島神社の場所に「宮田学校」が置かれる前は、「観音堂」があった。現在は宮田小学校南へ移転されている。

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❺神社幕(神前幕)に「昭和九年」の文字が確認できる*。本殿も新しく見えるため、1934年(昭和9年)に南向きに建て替えた直後に撮影されたものかもしれない。


*1934年(昭和9年)以降『喜多屋』所蔵

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❻1879年(明治12年)の神社明細帳に、口碑(言い伝え)として、1519年(永正16年)6月に尾張国愛知郡の津島神社より素盞鳴尊を勧請し、1522年(大永2年)11月16日に遠江国周智郡の秋葉神社より軻遇突智命を勧請した旨の記載がある*1882年(明治15年)の神社明細帳にも同様の記載がある**。


*1879年(明治12年)『上伊那郡神社明細帳下』

**1882年(明治15年)『信濃国上伊那郡神社明細帳』。

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❼1690年(元禄3年)の水帳に「天王社」は記載されていないが、近くの「白心寺」等は記載されている*。


*1690年(元禄3年)、『信濃国伊奈郡宮田村御検地水帳』

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❽宮田宿の旧家で見つかった「津島牛頭天王社」と「津島神社建速須佐之男命」の掛け軸。どちらも愛知県津島市の津島神社の掛け軸と思われる。


​*『喜多屋』所蔵



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