
宮田祇園祭研究
津島神社を知る
伊那街道(三州街道)宮田宿は、1593年(文禄2年)頃に萌芽し、1649年(慶安2年)頃に本格化したものと推測されている(*注1)。宿場町は、人・馬・物・情報・文化が行き交う玄関口であり、たびたび疫病が伝播することにもなった。また、間口が狭い家屋が密集する宿場町は火災に弱く、1662年(寛文2年)、1768年(明和5年)、1890年(明治23年)に大火の記録がある(*注2)。津島神社の前身である「天王社」は、宿場町の形成時または形成後に、除疫・防疫と火伏のため、宿場町(町割)の人々によって勧請されたと考えるのが自然であろう。
「天王社」は1776年(安永5年)以前に存在しており、おおよそ250年が経過しているのは間違いないが(❶参照)、勧請された時期の特定には至っていない。当初は、現在の「村人テラス」のあたりに建立されたが(❷参照)、1898年(明治29年)に「宮田学校」の跡地である現在地へ移転し(❸❹参照)、1930年(昭和5年)には隣接地を買収して境内が拡張された。その後、西向きの本殿は歓迎されないとのことで、民地の寄進を受け、1934年(昭和9年)に南向きに建て替えて現在に至る(❺参照)。
1879年(明治12年)と1882年(明治15年)の神社明細帳には、1519年(永正16年)6月に勧請された等の言い伝えが記載されているが(❻参照)、1690年(元禄3年)の御検地水帳に「天王社」が記載されていないことや(❼参照)、計画的に整備された宿場町(町割)を中心に発展した町区が氏子区域となっていることから、宿場町の形成前に「天王社」が存在していたとは考えにくく、整合性に疑問が残ると言わざるをえない。先行研究においては、次のとおり、宿場町との関係性が指摘されている。
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街道の西側の「天王」は、その名のとおり牛頭天王を祀った社で、徐疫の神というその性格から、宿場町ができた後、ありがちな疫病の流行を受けて勧請されたものであろう(*注3)。
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宮田の町へ津島神社を祀ったのはいつの頃であろうか。それは、おそらく江戸時代にここを通じる伊那往還(三州街道)が開け、宮田の宿場(しゅくば)が定まって間もなくであろう。(略)その宿場―宮田町を護り、商売繁昌の神として津島神社を迎え、町の南はづれの丘の上に祀ったのはまことに自然であった(*注4)。(原文ママ)
当初祀られたのは、除疫・防疫のために行疫神たる「牛頭天王」と、火伏のための「秋葉大権現」である。1868年(明治元年)の「神仏判然令」により、神仏習合の象徴であった「牛頭天王」は「素戔嗚尊(建速須佐之男命)」へ(❽参照)、「秋葉大権現」は「軻遇突智命(火之迦具土神)」へと読み替えられ、あわせて「天王社」から「津島神社(津島社)」に改称された。今日でも、親しみを込めて「お天王さま」と呼ばれるのは、こうした歴史の名残である。
(*注1)宮田村誌編纂委員会(編)、1982年(昭和57年)『宮田村誌』上巻、宮田村誌刊行会、p.735、740
(*注2)宮田村誌編纂委員会(編)、1983年(昭和58年)『宮田村誌』下巻、宮田村誌刊行会『宮田村誌』下巻p.838、宮田村誌編纂委員会(編)、1982年(昭和57年)『宮田村誌』上巻、宮田村誌刊行会、p.741、833、840、873、875
(*注3)小池孝(著)、2018年(平成30年)「伊那街道宮田宿」上伊那郷土研究会(編)『伊那路』(宮田宿特集)第62巻第10号通巻741号、p.1~10
(*注4)向山雅重(著)、1990年(平成2年)「狂気の神輿に警鐘鳴らす 向山雅重『祇園祭の記』江戸時代に始まった津島様の祭」宮田新聞社(発)『みやだ漫筆』、p164~156
文責:天野早人