top of page
  • 執筆者の写真天野 早人

宮田村津島神社に関する一考察

更新日:2023年7月15日

『島』か『嶋』かについて

「確たる郷土認識の基礎たる研究」は、わたくしのライフワークの一つです。これは戦前の言葉なのですが、その意味はまたの機会にご紹介いたします。さて、先日、宮田村の中心市街地にある津島神社の「シマ」という漢字について、地元の方から『島』なのか『嶋』なのかというお問い合わせをいただきました。私見をまとめてみましたので、ご興味のある方はどうぞご高覧くださいませ。あらかじめ結論めいたことを申し上げると、「論評するだけの資料が十分にそろっておらず、引き続き検証・議論が必要」ということになります。


  1. 明治12年(1879年)の「上伊那郡神社明細帳下」で、「津『嶋』社」(宮田村字天王社)となっているが、由緒に関わる一節で愛知県の津島神社は「津『島』神社」と区別されている。すべての類似例にあたり、比較してみる必要がある。ちなみに、愛知県津島市の津島神社では『島』と『嶋』が混在する状況が続いていたが(少なくとも明治時代においても混在)、昭和27年(1952年)の宗教法人登記にあわせて「津『島』神社」に統一している。鳥居横の石柱も「津『島』神社」である。お守りも御朱印の文字も「津『島』神社」だが、御朱印の印鑑は「津『嶋』神社」となっている。そうした例からも、一部の資料に依存した結論は、正しい判断であるとはいえないのではないだろうか。

  2. 昭和9年(1876年)の「宮田村役場土地登記済*通知書(*旧字)」には「無格社津『島』社」と「津『島』神社」との表記がある。

  3. 宮田村旧土地台帳では「無格社津『島』神社」との表記がある。

  4. 現在の市販地図は宮田村の津島神社は、『島』となっており、『嶋』の表記は見当たらない。現状、「津『嶋』神社」と表記する人が、一体どれくらいいるのだろうか。地域に広くどのように親しまれ認識・認知されてきたかも重要な視点であると考える。蛇足ではあるが、祖母の世代は「オテンノウサマ」と呼んでいたことが強く印象に残っている。世代間の認識差についても調査の必要性を感じる。

  5. 大正時代(1912年~1926年)の喜多屋絵葉書には「宮田津『島』神社」との表記がある。

  6. 長野県神社庁のリストによると、「津『島』」または「津『嶋』」を冠する神社は県内に17社あるが、「津『島』」が16社、「津『嶋』」は1社である。松本市大字保福寺町の「津『嶋』社」は市販地図も『嶋』の表記となっている。

  7. 宮田村の津島神社の「ギオンマツリ」という言葉が登場する古文書は、天保7年(1836年)の増屋文書「衹園祭奉加帳」が現時点では最古であるが、頭の「ギ」の字は『衹』の右上に点が付いている。しかしながら現在はバラバラで『祇』なども使われている。社名についても、漢字の正確な表記にこだわるとするならば、どの時点の、どこで、誰が、ということも考慮しなければならない。そのことを論評するだけの資料は十分とはいえない。

  8. 【補足】宮田村の宮田宿及び津島神社の歴史はまだまだ謎が多い。たとえば、元禄3年(1690年) の「信濃国伊奈郡宮田村御検地水帳」や明治9年(1876年)の「長野縣町村誌」に一切記載のない「天王」が、明治12年(1879年)の「上伊那郡神社明細帳下」で「津『嶋』社」として登場し、永正16年(1519年)に勧請云々と記載されていることについては、宮田宿が成立したと推測されている年代との整合性がとれず、今のところ説明がつかない。また、宮田村誌を含めた多くの文献で、津島神社の祭神は「スサノオノミコト」であると記載されており、「カグツチノカミ」が記載されていないことについて、これまで明確な説明がなされていない。ちなみに最近、安永5年(1776年)の喜多屋文書「秋葉津『嶋』両社入用帳」が発見されたが、天保時代(1830年~1840年)の「宮田村部分古絵図1」の記載は「天王」であり(地図類の証拠としては現時点で最古)、両者の関係性の検証はこれからである。宮田宿の旧家に大量に保存されている古文書の解読が進み、遠くない将来、新たな知見がもたらされることが期待される。引き続き、十分な検証・議論が必要であると考える。

以上


2021年8月15日 宮田村津島神社に関する一考察①『島』か『嶋』かについて 天野早人

宮田人
​天野早人

bottom of page