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宮田祇園祭研究(2)祇園祭を楽しむ

  • 執筆者の写真: 天野 早人
    天野 早人
  • 7月19日
  • 読了時間: 6分

更新日:11月3日

宮田村の津島神社の祭礼は「祇園祭(ぎおんまつり)」である。その起源は明らかになっていないが、1836年(天保7年)の文書が発見されており、おおよそ190年は遡ることができる(❶参照)。毎年、7月の第3土曜日に「宵祭(よいまつり)」、翌日曜日に「本祭(ほんまつり)」が挙行される(*注1)。奇祭として知られる「宵祭」は、氏子中心の神事や神賑行事と、宮田村商工会中心の煙火大会(打ち上げ花火)等の出し物をまとめて、「宮田祇園祭」と総称されるのが一般的である(*注2)。


宮田村最大のイベントであり、歴史的な祭礼としては、上伊那地域最大級の賑わいを楽しむことができる。大正時代の日記に、「ずい分多くの人出にてなかなか大賑かなり」(*注3)、「例年の通り祇園祭にてなかなか賑わし」(*注4)との記載があり、古くから人々を魅了していたことがうかがえる。


「祇園祭(宵祭)」の主役は桧造りを基本とする「おみこし(大人神輿)」であり(❷参照)、真柱一本になるまで神社の石段で幾度も投げ落とし、叩きつける「打ち壊し」が行われる(❸参照)。いつから打ち壊しが始まったのかわかっていないが、1906年(明治39年)の決算報告に「神輿」の記載がある(❹参照)。1921年(大正10年)の書籍に、「祭典は祇園祭と稱し、毎年神輿を新調し、町内をきおひ巡り、遂に神輿を破壊するまでに至るを例とす」とあり(*注5)、おおよそ100年前には「打ち壊し」が行われていたことがわかる。「おみこし」の奉仕者(担ぎ手)や祭典委員が披露する祝い唄「おんたけやま」は、「伊那節」の元歌である「おんたけ(おんたけやま)」から派生したものである(❺参照)。


古老によると、現在のように神社の石段で「打ち壊し」が行われるようになったのは、製作に釘が使われるようになった明治時代以降であり、かつては「おみこし」が津島神社に戻るころには、真柱をのぞきほとんど打ち壊されていたという。ちなみに​、「あばれみこし」と呼ばれるようになったのは、次のとおり、1961年(昭和36年)以降である。


町耕地の祇園祭の神輿のことを宮田新聞は毎年”あばれみこし”と書いて来た。だんだんそれが伝染して他の新聞や観光パンフレットまでそう書くようになった。(略)私のようにこの村で生まれ育ったものはああいう神輿しか知らぬから”暴れ”などという修飾語は付けない。単におみこしという(*注6)。


宮田の祇園祭のおみこしは賑やかに勇ましく町を練り歩くが、決して「あばれみこし」ではない。そんな言葉でダレが言い始めたか知らぬが、梅雨前線豪雨で天竜川が氾濫したころ、「暴れ天竜」などとマスコミが書き立てたが、その言葉がいつしか伝染して「あばれみこし」の語が生まれたのであろう(*注7)。


「打ち壊し」を行う理由は、次のとおりである。


しまいは神輿を真柱だけになるまでに、うちこわしてしまう。これを拾って屋根にあげておくと災難除け・万病除けになると信じられており、神輿をこわしてしまうことが神意に適うと言い伝えられている(*注8)。


  • ​もし、みこしを出さないなどとすると、神の怒りで、疫病―悪い病がはやると信ぜられている有様である。そのご利益か、このぎおん祭から、梅雨がからっとはれて、夏らしい日になってくるのが普通(*注9)。


  • みこしの毀(コボ)れはすぐに近くの家の屋根へ投げ上げてしまう―、それが津島様の御利益(ごりやく)で、災いをよけ、商売繁昌の守りになるというわけで、ひとびとはそれを喜び、かけらの一つでも拾って持ち帰るのである(*注10)。


「祇園祭(宵祭)」は「祇園囃子屋台」の運行からはじまるが(❻参照)、これは「おみこし」の巡行ルートを清める目的があるとされ、現在は6曲のお囃子が披露されている。1917年(大正6年)の寄附帳があり(❼参照)、おおよそ100年前には「祇園囃子屋台」が運行されていたことがわかっている。​


​「祇園囃子屋台」の巡行が終わり、津島神社の本殿で神事が執り行われると、「子供神輿」、「おみこし(大人神輿)」の順に町内へ繰り出す。1935年(昭和10年)頃から始まったといわれる「子供神輿」は(*注11)、簡素な作りの「樽みこし」であるが、「おみこし(大人神輿)」と同様、真柱一本になるまで神社の石段で幾度も投げ落とし、叩きつける「打ち壊し」が行われる。


ご神体を乗せて町内を担ぎ回った「おみこし(大人神輿)」は、神社近くでご神体を降ろし、21時45頃から「打ち壊し」が始まる。それまでの間、宮田太鼓、阿波踊り、よさこいソーラン、煙火大会(打ち上げ花火)はもとより、宮田宿の歴史的建造物の前に連なる提灯や満艦飾、賑やかな露店の雰囲気など、大観衆の熱気を感じられるのも、この奇祭の醍醐味である。


なお、神輿を石段から投げる事例として、愛媛県松山市にある国津比古命神社(クニツヒコノミコトジンジャ) の「神輿落とし」(北条秋祭り)、島根県奥出雲町にある阿井八幡宮(アイハチマングウ)の「押輿神事(オシコシンジ)」(例大祭)がある。また、宮田村に隣接する長野県木曽町にある「水無神社(スイムジンジャ)」では、神輿を路上で転がす「みこしまくり」(例大祭)が行われている。関連性については別の機会に記したい。


(*注1)かつては、7月14日に宵祭、翌15日に本祭が挙行されていたが、平日の開催は仕事に支障がある等の理由で、1981年(昭和56年)から現在のように変更された。(『宮田村誌』下巻p.694、『宮田村の文化財』p.25)

(*注2)「祇園祭」にあわせて、様々な出し物が行われてきた。現在の出し物(宮田太鼓、阿波踊り、よさこいソーラン)がほぼ出そろったのは2007年(平成19年)である。打ち上げ花火は1930年(昭和5年)頃から始まったのではないかという話がある。

(*注3)1915年(大正4年)7月13日、『喜多屋日記』

(*注4)1918年(大正7年)7月14日、『喜多屋日記』

​(*注5)唐澤貞治郎(編)、1921年(大正10年)『上伊那郡史』、上伊那郡教育會、p.986

(*注6)代田敬一郎(著)、1990年(平成2年)「移住者の眼」宮田新聞社(発)『みやだ漫筆』

(*注7)向山雅重(著)、1990年(平成2年)「狂気の神輿に警鐘鳴らす 向山雅重『祇園祭の記』江戸時代に始まった津島様の祭」宮田新聞社(発)『みやだ漫筆』、p.166~177

(*注8)宮田村誌編纂委員会(編)、1983年(昭和58年)『宮田村誌』下巻、宮田村誌刊行会、p.694~695

(*注9)向山雅重(著)、1970年(昭和45年)6月26日『山ぶどう』、宮田新聞社、p.313~314

(*注10)(*注11)向山雅重(著)、1990年(平成2年)「狂気の神輿に警鐘鳴らす 向山雅重『祇園祭の記』江戸時代に始まった津島様の祭」宮田新聞社(発)『みやだ漫筆』、p.164~167​


文責:天野早人(2025年7月19日)

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❶祇園祭に関する寄附が記録されている。「祇園祭」について、現時点で確認されている最古の文書である*。


*1836年(天保7年)、増屋文書『衹園祭奉加帳』

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❷もっとも古い「おみこし」の写真である。旧社殿らしき建物が写っているいるため、1934年(昭和9年)の建て替えより前に撮影されたものであろう*。


*小田切時計店所蔵

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❸「おみこし」の「打ち壊し」*。


*2024年(令和6年)

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❹「支出ノ部」に「一金拾六銭 神輿新調代」とある。神輿に関する記録としては最古の文書である*。


*1906年(明治39年)、『津島社修繕並附属新調祭典費決算報告』

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❺祝い唄「おんたけやま」は、「伊那節」の影響を強く受けている。「伊勢音頭」、「三河盆歌」、「阿南町和合日吉・天龍村神原坂部の踊り」に同じ歌詞が見られるため、宮田村オリジナルではない*。


*2011年(平成23年)、祭典委員会

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❻1955年頃(昭和30年頃)の祇園囃子屋台の写真である*。


*(合)マスノヤ所蔵

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❼「祇園囃子屋台」について、現時点で確認されている最古の文書である*。屋台ではなく、「山車囃子」と表記されている。


​*1917年(大正6年)、祇園祭典山車囃子入費寄附帳』銭屋文書






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