本日2023年7月8日、令和5年度第1回宮田村図書館郷土学習講座が開催され、「津島神社と祇園祭の物語―わかっている事とわかっていない事―」というタイトルで講演させていただきました。お足元の悪い中、大勢の皆様にご参加いただきまして、ありがとうございました。また、祭典委員の皆様には祝い唄「おんたけやま」をご披露いただき、盛り上げていただきましたこと、心より感謝申し上げます。津島神社と祭神、祇園祭、おみこし、祇園囃子屋台、祝い唄等について駆け足でお話申し上げましたが、神仏習合・神仏分離のあたりの説明を割愛したため、わかりにくくなったのではないかと反省しております。もう少し交通整理した上で、なるべく早く新しい論文にまとめるよう努力してまいります。いよいよ来週は4年ぶりの宮田祇園祭です。素戔嗚尊(牛頭天王)と軻遇突智命(秋葉大権現)の御加護があらんことを!
講演のポイント
津島神社の前身である天王社は、伊那街道(三州街道)宮田宿の南の入口へ、町割(町区)の氏神として、除疫・防疫のために行疫神たる牛頭天王と火伏の秋葉大権現を勧請したもので、その祭礼は祇園祭である。江戸時代の1776年(安永5年)の古文書が確認されており、少なくとも247年前には鎮座していたことになる。
明治政府の神仏判然令により、神仏習合の象徴であった牛頭天王は素戔嗚尊へ、秋葉大権現は軻遇突智命へと読み替えられ、名称も天王社から津島社(津島神社)に改められた。なお、明治時代に道路をはさんで斜め向かいの現在地へ移転している。おみこしを階段で打ち壊すようになったのは、この移転後からであると考えられる。それ以前のおみこしは道路上で打ち壊されていたと、古老は語っていた。
祇園祭がいつからはじまったかは定かではないが、1836年(天保7年)の古文書が確認されており、少なくとも187年前には挙行されていたことがわかる。おみこしの打ち壊しもいつからはじまったかは定かではないが、1921年(大正10年)には行われていたことが文献により明らかになっており、少なくとも102年前まではさかのぼることができる。なお、「あばれみこし」と呼ばれるようになったのは1961年(昭和36年)以降である。
素戔嗚尊のご神体を乗せてきおい巡ったおみこしは、神社手前でご神体を降ろしてから階段で幾度も投げ落とし、真柱一本になるまで打ち壊される。おみこしの毀れ(破片)を屋根へ投げ上げておくと(または神棚へ上げておくと)、災厄除去・商売繁盛等のご利益があると信じられており、近郷近在から集まった多くの人々で賑わう。
今日では、7月第三土曜日の祇園祭(宵祭り)の神事や神賑行事、その他の出し物をまとめて「宮田祇園祭」と呼んでいる(翌日の本祭りは神事のみ)。駒ヶ岳と並ぶ宮田村の夏の代名詞であり、人々を魅了してやまない奇祭である。
※パワーポイントや配布資料のごく一部の要約です。
(1) 津島神社の文書類でもっとも古いものは1776年(247年前)
(2) 津島神社の地図類でもっとも古いものは1833年頃(190年前頃)*修正(配布資料は修正していません)
(3) 津島神社の写真類でもっとも古いものは1913年(110年前)
(4) 祇園祭の文書類でもっとも古いものは1836年(187年前)
(5) おみこしの文書類でもっとも古いものは1906年(117年前)
(6) おみこしを壊す記述でもっとも古いものは1921年(102年前)
(7) おみこしの写真類でもっとも古いものは少なくとも1944年(79年前)
(8) 祇園囃子屋台の文書類でもっとも古いものは1917年(106年前)
(9) 祇園祭の満艦飾の記述でもっとも古いものは1925年(98年前)
(10) 祇園祭の広告類でもっとも古いものは1970年(53年前)
(11) 祇園祭の現在の出し物がほぼ出そろったのは2007年(16年前)
レジュメ・配布資料
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